Point of noreturn の日記

日々の出来事や感じたこと書いてます。

ルーマニア

お題「もう一度行きたい場所は?」

暑い日だった。

何年前だろう?

オトペニ空港に着いたのは昼過ぎくらいだった。

ブカレストの国際空港の名前がまだオトペニと言われていたころだ。

今はアンリコアンダ国際空港と改名されている。

空港に着くと迎えの人が待っていてくれた。

空港から車で40分くらいだったろうか

スナゴフ(Snagov)と言う町に着いた。

大きな湖のほとりの宿舎だった。

憂鬱だった。

来たくて来たわけではない。

仕事だ。業務命令というやつか。

滞在期間は二ヶ月弱くらいだったと思う。

この先の生活を思うと気が重かった。

3食の食事は二ヶ月間ほぼ同じ。

それでもこの辺ではかなりいい食事だと言われた。

朝はパンとハムと卵と牛乳。

この朝食は問題ない、というかむしろ贅沢だ。

コーヒーはない。

昼は靴底のような豚肉とポテトとスープ。

夜は昼と同じ。

これがほぼ毎日続いた。

でも、私自身は食事に関しては不満はなかった。

確かに飽きるが、普通に美味しかったからだ。

ただ、一緒に行った他の日本人は辟易としているようだった。

チャウセスク政権が崩壊して5年くらいたったころだったろうか。

とにかく物がなかった。食べ物だけでなくいろいろな物資がなかった。

50年近くの人生の中で、これほど長い期間同じもを食べた記憶はこのときだけだ。

先が思いやられると思っていたが

生活を始めて2,3日くらいで友人ができた。

その出会いが、ここでの生活を本当に楽しい生活に変えてくれた。

やはり、どこにでも似たようなやつはいるものだ。

名はロバートと言った。

私より3っつくらい年下だが

はじめてあった時は、完全に見下されていた。

「ヘイ!日本人、どうかしたか?」

と言って近づいてきた。

今思えば、彼なりに舐められないように虚勢を張っていたようだ。

ロバートとはなぜか、異常なほど仲がよくなった。

もちろん、変な関係ではない。

彼とは仕事が終わると、毎晩飲んだ。

宿から1キロくらい離れた雑貨屋で飲んだ。

と言うのは近くに飲み屋などなかったし

その店が1番近い店だった。

6畳くらいの狭い店だが生活に必要なものはほとんどそろっている感じだった。

もちろん、酒も売っている。

彼はいつも、ひまわりの種をつまみに飲んでいた。

当時、こっちの人はよく、ひまわりの種を食べていたように記憶している。

と言うのも、バス停や駅にひまわりの種の殻が、よく落ちていたからだ。

毎晩、いろんな話をした。

当時、二人ともまだ20代だ。

将来の夢などを語り合った記憶もある。

と言っても私は英語がほとんどできないので、

辞書や、電子辞書、身振り手振りで一生懸命会話した。

もちろん言い争いのような喧嘩もした。

でも、辞書とかを使いながらなのでかなりタイムラグがある喧嘩だった。

それがまた、楽しかった。

彼は、日本のことをよく聞いてきた。

ヨーロッパはいろいろいったことがあるらしかったが

アジアのほうへは行ったことがなかったから

日本への興味はすごくあった。


ロバートは、毎週土曜の夜はディスコへ連れて行ってくれた。

しかし、私は夜間の外出や外泊は禁じられていたのでばれないように

出て行かなければならない。

夜、10時を過ぎたくらいに窓に小石が当たる。

それが合図だ。

ロバートは下で待っている。

私の部屋は2階だったので、窓から出て屋根伝いに下に下りる。

音を立てないようにそっと。

毎回ひやひやする。

後に聞いた話だが、一緒に行った人は毎週末、

私が宿を抜け出し夜遊びに行っていることは知っていたらしい。笑

ディスコは湖の対岸にある。

陸路で行ったらかなりの距離だ。

なので彼は毎回、手漕ぎボートをどこからか調達してきてくれた。

真っ暗な湖の上を対岸の明かりを頼りに漕いで行く。

はじめは結構これだけでもスリルがあった。

今思えば、トムソーヤーの冒険を地でやってたようなものだ、しかも26,7にもなって。

ディスコは楽しかった。

ワインボトルを片手に、朝まで狂ったように踊った。

地元の人にとっても、毎週末に開催されるディスコは

唯一の娯楽らしく、大勢の人でにぎわっていた。

がんがん飲んで、踊って、よく話した。

これが週の唯一の楽しみでもあった。

 

ある日曜の昼ごろ、ロバートが私の部屋を訪ねてきた。

寝起きの顔だ。

例のごとく前日のディスコの疲れを引きずっているようだ。

ドアを開けて

「ヘイ!マイフレンド!」

と言ってくる、いつものパターン。

このころ、ロバートは私のことを名前ではなく

マイフレンドと呼ぶようになっていた。笑

「今日は何をする?」

と聞いたら

ブカレストへ行こう」

と言ってきた。

断る理由もない。

準備もない。

ビーサンにTシャツ短パン。

すぐに二人でバス停へ向かった。

すると目の前でバスが出発してしまった。

あ!と私はちょっと驚いたがロバートはまったく動じていない。

時刻表を見ると1時間に一本しかない。

「お前、地元なんだから時間ぐらい見とけよ~」

と言ったら彼は

ヒッチハイクで行けばいいのさ」

と余裕たっぷりだ。

 その余裕の通り、すぐに車はつかまった。

家族づれのワゴン車だ。

が、しかし、ブカレストの数キロ手前でエンジントラブルで停車。

家族と一緒に近くのスタンドまで車を押すことに。

真夏、道の途中にある気温を表す電光掲示板は

36度を示している。

汗ダクダクでスタンドまでたどり着いた。

家族がお礼を言っている。

「気にしないで」

と精一杯笑顔を作って答えた。

ちょっと引きつっていたかな。笑

さすがロバート、次は車をすぐに捕まえて来た。

でも、ブカレストに着いた時のはなんか疲れていた。

街は、なんて言っていいのか?

混沌としていた。そんな感じだ。

まだまだ、政情が不安定なころだ。

でも、人々は逞しく生きていた。

そして、笑顔があった。

いろいろ見て回りたかったが、疲れたのと

空腹で何か食べようと言う事になった。

外出先での食事が唯一違うものが食べれる機会だ。

私のいた宿は、基本は土日はもちろん、週7日三食付いている、凄く良心的な宿だった。

考えてみると代表的なルーマニア料理は

結構たべていた。

ミティティ、サルマーレ、ママリガなど。

で、散々迷った挙句入った店は

マックだった。笑

なんか落ち着くんだよな〜、とか言いながら。

日本にいる時はマックなんて年に数回なんだが、

海外に行くとつい何故か行ってしまう。

結局マックでダラダラと話し込んでしまい街を見る時間がなくなった。

仕方なく帰る事に。帰りはのんびりバスで帰った。

来た時は気の遠くなるような二ヶ月間と思っていたが、何だかんだしてるうちに時間は過ぎて言った。

ルーマニア滞在も残すところあと一週間くらい。

そのころになると、私はなんだかどんどん元気になって行った。

やはり帰国が近づくとなんだがいてもたってもいられない、そんな感じだった。

必然的にロバートに話すことも日本に帰ったら、

と言うような話が増えて行った。

帰国数日に迫ったある夜、いつものように、

ロバートといつもの雑貨屋へ飲みに行った時のこと、私はまたいつものごとく日本に帰ったら、

と言うような話を始めた。

するとロバートが、

「日本に帰れるのが、そんなに嬉しいか?」

と聞いてきた。

もちろん、と言おうとして、

ロバートの表情を見たとき、言葉を飲み込んだ。

悲しそうな顔で彼は続けた。

「お前に会えてから、本当に楽しい日々だった、でも帰ってしまえば、また今迄のただの日常にもどるだけだ。」

それ以上は何も語らなかった。

私はそれ以降、帰国の日まで日本に帰る話はやめた。

そして、精一杯二人で時間の許す限り、いろんなことを楽しんだ。思えば、悪さもずいぶんしたかな。

そして帰国の日が来た。

フライトの都合上、宿を出発するのが早朝6時くらいだった。

朝早かったが、宿の人は総出で見送りに来てくれた。

私は、ロバートは来てくれないものだと思っていた。

でも彼はいた。

しかし、私とは目を合わせてくれなかった。

最後まで。

私は、宿の人達一人一人に一通り別れの挨拶を済ませ、最後にロバートの前で彼に言った。

「ありがとう。またな。また会おう。」

そう言って強く彼を抱きしめた。

するとロバートも私を力強く抱きしめてくれた。

嬉しかった。

私は迎えに来た車へ向かって歩き出した。

そこからは一度も振り返らなかった。

振り返れなかった。

車に着く数メートルの距離の間に

涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。

泣き顔など恥ずかしくて見せられっこない。

あのころは、そう思っていた。

ああ!こんなに悲しい思いをするなら

友達なんかになるんじゃなかった。

本気でそう思った瞬間もあった。

でもきっとそんなんじゃない。

一緒に過ごした時間は何ものにも変えがたい、そして、かけがえのない思い出。


実はその後二回くらいまたルーマニアに行く機会があり、当然だか、ロバートとはまた狂ったように遊び歩いた。

しかし、その後10年以上は全く連絡も取れていない。

私は幾度かの引越しや震災などで、

昔のものはほとんど失ってしまった。

連絡先などもその中の一つだ。


機会があればやはりもう一度

ルーマニアに行って見たい。

そして、また、奴に会いたい。


「ヘイ!マイフレンド!」

早口でロバートが私を呼ぶイントネーションや発音は、

今でも、全く色褪せることなく私の記憶の中にある。